スポンサー広告

スポンサーサイト

 ←日本は 多様性のある平和国家を目指すべきだ (元国連難民高等弁護官 緒方貞子) →憲法9条は『今でも旬』ではない。『今こそ旬』だ(小田実)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。



記事一覧  3kaku_s_L.png 政治
記事一覧  3kaku_s_L.png 暮らし
記事一覧  3kaku_s_L.png その他
  • TB(-)|
  • CO(-) 
  • Edit

暮らし

ヘンなものを取り入れ 崩すことが好きな日本人(絵師 山口晃)

 ←日本は 多様性のある平和国家を目指すべきだ (元国連難民高等弁護官 緒方貞子) →憲法9条は『今でも旬』ではない。『今こそ旬』だ(小田実)
以前、仕事をご一緒したこともある「山口晃」画伯の「ヘンな日本美術史」という本が、画家として初めて「小林秀雄賞」を受賞した。

山口さん自身、遊び心とエスプリを持ち合わせているユニークな人だが、
この本は学術書に近く、
・浮世絵や、鳥獣戯画にみられるようなオリジナリティ溢れる日本絵画が、明治以降、洋画の遠近法などの影響を受け、魅力がなくなってしまったこと。
・日本独自の美意識と、取拾選択から学ぶヘンな文化があること
などを、画家の視点から書いたものだ。

面白いので紹介してみる。


◆ヘンなものを取り入れ 崩すことが好きな日本人(絵師 山口晃)

日本文化にはオリジナリティがなく、全部大陸の模倣ではないかと言っている人もいる。しかし調べてみると、ちゃんと取拾選択は行われている。

例えば、飛鳥・奈良時代の建築などでは、さまざまな様式を割と節操なく取り入れている。
法隆寺の建築様式は、均整がとれていて力強くてよいと言われているが、裏を返せば、カクンカクンとして心持ち硬い。「すごくいいけれども、カタいよなー」ということだったのか、その後の建築物には、法隆寺様式を取り入れられず、もう少し優雅な当たりの柔らかい建築に変わっていった。

しかし、まったく使えないから捨てられていくかと云うとそうでもなく、最初に粗い網にかかって節操なく採り入れた物を、時間をかけて取拾選択して、何代かを経て“こなしていく”ことを行っているのだ。これこそが日本文化の「オリジナリティ」の文化だと思う。

◆そもそも、日本人はヘンなものを取り入れるのが好きな民族

例えば、お茶も中国から伝わったものを、日本独自に発展させたものである。
茶器一つをとっても日本と中国とでは大分違う。中国ではシンメトリカルなものが好まれ、瑕(きず)のないものが良しとさている。茶杓にしても、中国では銀や象牙で作れてており、すっと奇麗に伸びたフォルムをしています。しかし日本では、それをすす竹で作ったりしている。このように材料からしてまず外してくる訳です。しかも、竹の節をわざと残して、それを目立たせるかのように節の裏を削って「蟻腰(ありこし)」といっています。

何をわざわざそんなことをしなければいけないのかと、思う人もいるのでしょう。だけど、外すことで中心からの距離が生まれ、それにより「動き」を含んだ「静止した動態」とでもいうべきものが現れ、それがよしとされているのです。

さらに、この節、すなわち腰の位置をどのようにずらすかで、櫂先(かいさき)と呼ばれる先の部分をどのように跳ねさせるか、その部分のこだわりにしびれたりします。
この「しびれ」が分かる分からないという点については、やはり民族の特徴があって、日本人は、この「崩し」の価値をかなり早い時期から理解していたようです。

茶室などを見ると基本的には、柱を見えるように残しておくことが多いのですが、それにより非常に強い垂直性と規則性が部屋の中に生まれます。さらに畳の目なども真っ直ぐに並んでいます。そうした中で、茶器などの道具は崩します。そうするとその崩しが生きてきます。へなへなの茶碗や、節のついた茶杓といったものを洞窟の中に置いても、汚いだけで何の意味もありません。

日本人は、何でもかんでも採り入れたのかということではなくて、美意識が確率されており、中心軸が分かっていたから、崩すこともできたのです。見えない中心軸のようなものがあって、そこからどう外して展開していくか。日本人は大きさや色、形をいったものから、それが在る座、主客を含めて違う次元のものでギリギリのバランスを取ることに長けているのです。

◆「鳥獣戯画」から感じる日本人の美意識







教科書などで「鳥獣戯画」という平安時代から鎌倉時代に描かれた、甲乙丙丁の四巻からなる絵巻物が紹介されています。甲巻では、擬人化された猿や兎、鹿、狐、蛙などが遊んでいる様子が描かれており、動物たちや自然の風景を描く墨の線が、迷いがなく、かつ伸びやかで素晴らしいものです。

ぱっとみるとよくできている絵巻物なのですが、私はこの「上手でございます」的アピールが、やや退屈に感じていました。

しかし、ある美術館において原画を拝見する機会があり、考えを改めました。
まず、驚くほど墨が綺麗なのです。

墨で描かれているのだから墨一色だろうというのは大きな間違いで、ガラス絵を見ているような透明度と色の奥行きが感じられます。ザザッと岩を描いたような荒れた一筆。その墨がスーッと吸い込まれるように、画面の上に定着されています。よほど粒子の細かい墨なのでしょうか、黒というよりは青みがかっています。それが驚きでした。

「鳥獣戯画」に代表される墨と線と塗りだけで描かれた絵を白描画と呼びます。起源は大陸で、仏画の下図が始まりだったと云われています。奈良時代に日本に渡り、平安時代になると「源氏物語絵巻」や「枕草子絵巻」で盛んに描かれるようになりました。

白描画の特徴は、墨で描かれていることですが、画面構成が、イメージよりも、平面として成り立たない部分がある点です。いわゆる「平面のプロフェッショナル」というべき、画面というものだけで勝負している感があることです。

ぱっと見た時に、広場に人がいるという空間よりも、線である、墨である、といった画面そのものが最初に目に入ってくるのです。絵というのもが現実の空間を写すものだとすれば、例えば「奥行きを出すためには、ここに線がなければならない」と考えたりするものなのですが、それよりも画面構成の心地よさを優先してしまっている。奥行きなんかどうでもいいから、まずここに墨を入れないと間が抜けてしまう。そのことが重要だったのかもしれません。

絵というものは、目で見える三次元の実物を、二次元に置き換えることです。そこにはある種の「変換」が必要になってきます。ただ「写せばいい」というのではありません。実物をよく見て定着することは重要ですが、一方で、頭の中のイメージを置き換えることが、別のところに行ってします。

明治以降の近代絵画では、遠近法やパースなどを使って、意識的に三次元のイメージを、二次元置き換えます。しかし頭の中では、「鳥獣戯画」にあるような、ある一瞬の1シーンが記憶され、バラバラな絵具の筆致の集まりが、離れてみた時に溶け合って一つの空間が現れます。こういう快感、遊びの要素を楽しんできたのが日本人でした。

白描画は、絵の中で白を再現する際には紙の白を残すしかない。そうすると油絵のように色を重ねてから白をのせることができません。最初から白を残す部分を頭のどこかに置いておく必要があります。逆に、白く残す部分以外を描くことによって画面を仕上げることをしなければなりません。

白描画は、色だけの世界を目指した印象派の画家たちと共通するのではないかと思います。
印象派の絵画も、カラーですが、ひと塗りの荒さや塗り残しから覗くキャンバス地が画面の物質性を意識させる点において、白描画の紙の白と墨が目につく状態と似ているのではと思います。

白を後から塗れない不自由さを、むしろ面白さに変えていう。そのために工夫や技法を生み出していく。明治時代に至るまで、この墨と筆遊ぶということを自然に日本人は楽しんでいたのです。

私が日本人だから贔屓目に見ている部分もあるかと思いますが、西洋人や中国人から見た「日本美」というものは、奇妙に見えるものもたくさんあると思います。

多様化というのは、何も変えることばかりではありません。昔からあった文化や、文学、風俗などを継承し、伝えていくことも、日本人として大切ではないかと感じます。
関連記事



記事一覧  3kaku_s_L.png 政治
記事一覧  3kaku_s_L.png 暮らし
記事一覧  3kaku_s_L.png その他

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 現在非公開コメン卜投稿不可です。

~ Trackback ~

卜ラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

【日本は 多様性のある平和国家を目指すべきだ (元国連難民高等弁護官 緒方貞子)】へ  【憲法9条は『今でも旬』ではない。『今こそ旬』だ(小田実)】へ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。